2011/03/24

居室被害状況

昨日、一昨日で居室等の片付けを行いました。
私の撮影した写真の範囲で簡単に被害状況を記しておきます。


私の居室の様子。
わかりづらいかもしれませんが、奥で本が散乱しています。


壁にヒビが入っています。
自宅もそうでしたが、特に角が割れています。
左のブレーカーはカバーが外れていたのですが、写真を撮った時点では元に戻してあります。


天井部分と壁に大きな隙間が空いています。
こういった損傷による砂埃が部屋中にちらばっていました。
また、点検口はカバーが開いたまま閉まらなくなったので、安全のため外してあります。


一番面倒だったのが散乱した本の整理。
揺れの向きが本棚に対して前後方向だったため、大半の本は落ちてしまってました。

これも本棚。
別角度からです。


この部屋で唯一の物的被害だった液晶ディスプレイ。
といっても落ちてちょっとフレームが割れた程度で使用に問題は無さそうでした。


ここからは別の部屋の被害。
これは大部屋で倒れていた棚の写真です。
この棚は突っ張り棒で天井から固定してあったのですが、あえなく倒れてしまっています。
机などにもたれた状態になっていたのですが、危険なので皆で協力して完全に床置きになるよう処置しました。


廊下の天井にあった排気口。
よくわからないのですが、全体的に降りてきてしまってます。
別の建物でもそんな被害がみられたので、ひょっとしたらそういうものなのかもしれません。
頭上注意の表示がしてあります。


会議室の壁。
ここの壁一面には本棚があったのですが、倒れてしまったため皆で撤去しました。
左に本棚に入っていた本をまとめてあります。

この本棚は壁に固定してあったのですが、こちらも支えきれずに倒れてしまったようです。
この規模の地震になると、もっと丈夫なもので固定しないとダメなのかもしれません。

その他、1階と地下に実験室があるのですが、そちらの方は大きな被害は無かった模様です(もちろん、見た目をチェックしただけなので、一度念入りにチェックを行う必要がありますが)。
居室は3階だったので余計に揺れたのでしょうか。
とりあえず危険そうな箇所はだいたい取り除きましたが、排気口など一部ケアできていない箇所が残っています。
まだまだ余震も続いていますので、そういった箇所にはあまり近づかない方がよさそうです。

2011/03/23

生存報告(6)

続きです。


週明けの朝、地震後初めて職場に皆で集合。
皆、地震当時の様子をお互いに報告。
とにかく無事で何よりだった。

そうこうしていると機構長からの放送。
設備が万全でないためか音が大きくなったり小さくなったりしているが、とにかく耳を傾ける。
昨日の段階で非公式情報は回ってきていたのだが、16日まで自宅勤務、と正式にアナウンスされた。
また、所属部署でもう少し細かい打ち合わせを行い、この週は何もできなさそうなので、21日までは自宅待機でも問題ないのではないかということを話し合った(後日、職場全体でも同様の対応となった)。

これを受け、九州の実家に帰省することを決意。
その日に飛行機に乗るのは難しそうなので、とりあえず東京の弟に連絡して一泊泊めてもらうことに。
この日は計画停電初日ということで電車まで止まる大混乱となっていたが、つくばエクスプレスが14:30まで動くという情報を確認。
職場に車を置いて電車に乗ることにした。

同僚に駅まで送ってもらうついでに昼食。
水がようやく出始めた、という状況だったが、いくつか営業している店があったのでそこに入る。
とりあえずはランチだけ、ということだったが、徐々に生活が復旧していることを感じる。

その後、電車に無事乗ることができ、東京まで移動することができた。
電車の中は大きな荷物を抱えている人がちらほら見受けられ、被災地から逃げている様子だった。
無事に弟と合流し、アパートでネットで翌日の飛行機の予約や情報収集を行った後、宿泊費代わりに弟に焼肉+アルコールをおごる。
ここまでくると完全に元の生活だなぁ、と思いながら食事を楽しませてもらう。
こうして、何かが引っかかりながらも徐々に普通の生活に戻っていくのであった。


地震からの避難についてはだいたい書き終えましたが、もう少しだけ続きます。

ちなみに、昨日東海村に戻ってきました。
途中、つくばセンターで少し買い物をしたのですが、若干商品が少ない以外は普通の状態に戻っているように見えます。
また、東海村もようやく全域で水が出始めたようで、つくばよりも不便ではありますが、普通に生活できるような状況になってきています(私の家がある地域はもう少し前から水が出ていたようです)。
ガソリン不足は問題ですが、生きて行くには全く問題ないでしょう。
1週間前は給水車まで水をもらいに行っていたのですが…

もちろん、本当の意味で以前と同じ状態に戻るにはもっと時間が必要かと思いますが、とにかく生活基盤が復旧することの意味は大きいです。
このペースで、東北の皆さんも普通の生活が取り戻せるようお祈りいたします。

2011/03/19

生存報告(5)

続きです。
この辺から徐々に普通の生活へ戻り始めるので内容はちょっと薄いかもしれません。


地震から3日目。
同僚が職場の様子を見たいというので、朝から職場へ向かう。
途中、ドラッグストアに大行列ができているのを確認。
流通がどうなっているのかもよく分からないし、今後の物資がどうなるのか少し不安になる。
また、そろそろ電話が不通につながるようになってきたので、友人の生存確認(&自分の生存報告)を何件かする。
幸いなことに、私の知人・友人は無事難を逃れたようだ。

職場では特に得られるものがなかったのでおとなしく帰宅。
昨日まではアパートのタンクの水が残っていたのか、上水が使えた時間もあったのだが、この日は完全に停止。時間を区切った部分給水が午前中にある、という話だったのだが、トラブルがあったのか水は出ない。
給水所が近くの公園ということだったので、そこまでバケツをもって歩いて行く。
給水所は長蛇の列ができていたものの、特に混乱はなく、粛々と給水作業が進められていた。
バケツは10Lのもので、9分目ぐらいまで入れてもらったが、10kg弱はそれなりの重さ。
しかも、ふたとかが無いので交代で慎重にバケツを運んだ。

帰宅後、同僚が風呂に入りたいと希望。
風呂と言っても、ポットでわかしたお湯で髪を洗って体を拭くぐらいのもの。
それでもやるとやらないでは随分と違う。
私は既に前日体験済み(そのときはお湯すらなかったが)なので、要領はだいたい分かっている。
1.洗面所に湯を張って、髪を濡らした後にシャンプー。
2.適当にすすいでタオルで髪を拭く。
3.残った水でタオルを濡らして体を拭く。
だいたいこんな感じだ。

あとは基本的に情報収集。
重要な情報としては
・つくばエクスプレスが全線復旧。本数は少ないが秋葉原までアクセス可能に。
・夕方より数時間部分給水が行われる。
・どうやら翌日(14日)から関東一円で5つのグループに分けた計画停電が行われるらしい(記憶によると、13日から電力が足りなくなるのでは、という話もあったが、停電は回避されていた)。
といった感じ。
このまま被災地にいても何かできることがあるわけではないし、むしろ物資不足を助長するだけなので実家に帰ることを検討し始める。
昨日連絡があったgoogleの掲示板で職場の対応はだいたい見えていたが、明日の朝に職場で機構長より職員に向けた放送があるということで、それを聞いてから最終的な判断をすることにする。

また、夕方の部分給水は予告通り行われ、無事風呂桶に水を張ることができた。
これで水に困ることはなさそうだ。
同時に米が炊けるようになったので食事をつくる。
この日はカレー。
適当に作った割にはそれなりにおいしかった。

食後は計画停電に関する情報を求めてテレビやwebを見るも情報は錯綜。
10時頃になってようやくグループ分けに関する情報が入り始めるも、つくばは第1グループ(3時間停電×2回)と第3グループ(3時間停電×1回)両方に入っている。
しかも、これは暫定的な情報とか言うし、よく分からない。
きっと、東京電力も混乱していたのだろう。


続きます。

なお、現在福岡に避難してきていますが、22日(火)から東海村に戻ります。
まだ自宅待機でも問題無さそうなのですが、そろそろ職場の復旧作業が始まりそうなので、そちらを手伝うことに決めました。
人命すら危うい地域がある中、復旧にむけた取り組みができるというのは幸せなことではありますが、物資が不足している中でやれることといったら被害状況の確認と片付けぐらいのものでしょうか。
とはいえ、それも地震から立ち直るための大きな一歩です。
茨城北部は水道が完全には復旧していない上、物流にも難があるようですが、自分のできることを精一杯やっていこうと思います。

2011/03/17

生存報告(4)

原発の事故が拡大しています。
今のところ、外部へ放出された放射性物質の量は多くありません。
予断は許しませんが、冷静に対応しましょう。

続きです。


継続的な余震があり、何度か目が覚める。
結局、うとうとするぐらいしかできなかった。
そんな中、朝からどういった行動するかを考えていたように思う。
出した結論は「荷物をまとめて早朝に被害が少ない地域まで南下する」。
もちろん、こんなときに一人で移動するのは非効率だ。
6時になったら一度研究所の宿舎に戻り、人を乗せて移動することに決めた。
そっちの方が、自分としても心強い。

携帯で時間を確認しながら5:30になるまで布団の中で待機。
5:30になるも外はまだ暗く、室内の様子は携帯などで何とか照らす。
衣類と貴重品をまとめ、身支度。
洗濯用にためておいた風呂の残り湯があったので、それを使って髪を洗うぐらいはできた。
そうこうしていると、日も昇り始めたので車に乗って出発。
車は多くないが、信号が止まっているので慎重に移動する。
気温は-2℃だが、燃料節約のためエアコンはつけない。
ガソリンメーターは約半分なので、400kmぐらいは走れそうだ。

問題なく宿舎へ到着。
寒さのため窓ガラスが凍っており、外から中の様子が見えない。
手で自動ドアを開け、中に入って絶句。
完全にテレビで見た避難所の様子だった。
自覚が足りてなかったのかもしれないが、ここは被災地なのである。

何人か起きている関係者が居たので早朝の車が混んでないうちにつくばに逃げることを伝える。
車と人間の割合を見て、手分けすれば全員がつくばへ移動できることを確認。
情報も少なく、どうするのがベストなのか誰にも判断できない状態だったので今後どうするかは各自の判断ということになったが、つくばに家がある人は同じように移動するが、東海に家がある人は残る、という感じだった。
また、気づいていなかったのだが徐々に携帯の電波が弱くなっているという話を聞いた。
自分の携帯を見ても確かに弱くなっている。
おそらく、基地局の非常電源が切れてきているのだろう。

そうこうしながら、こちらに実験にきていた学生さんをたたき起こし、つくばへ移動するが、希望するなら乗せていく旨を伝える。
彼らは家が東京なので二つ返事でOK。
実験中、宿舎で自炊等をしていたので、荷物と共に食材をまとめて6:30前には宿舎を出発をしたと思う。

まずは国道6号線に沿って水戸の方へ南下。
水戸市内までは渋滞もなく移動できたが、市内に入ると途中でガス欠をおこしたのか2車線の片側をふさいで止まっている車があったり、事故車があったりしてちょっとずつ渋滞が見え始める。
さらにすすむと完全に通行止めになっており、仕方なく迂回路を探す。
しかし、この辺の地理には明るくないので右往左往しながら道を探しているとコンビニを発見。
地図を求めてここに立ち寄ることにする。

どうやら開店直後だったらしく、まだ車も人も大行列には至っていなかった。
店内で地図を探し当てると共に、今後の食料(お菓子)とお茶を確保。
公衆電話が無料で使えるようになっていたので、これで連絡をとったりした。
ちなみに、無料とはいえ10円玉は必要なので、使用後は公衆電話の側に置いてあげるとみんな助かると思う。

途中聞いてたラジオで6号線はつくばの手前、石岡あたりでも通行止めになっているという情報を入手していたので、地図で別の道を検討。
国道50号線を使って筑西経由でつくばに移動することに決めた。
途中、市内で大渋滞が起こっていたのだが、なぜか右側の車線は空いている。
おかしいな?と思いながら右側を通っていったのだが、この渋滞の正体はガソリンスタンドへの行列だった。
また、水戸駅付近のコンビニにも大行列ができていた。
先ほどすんなりとコンビニに入れたのは相当運が良かったといってよいだろう。

その後は順調に移動し、9:30頃にはつくばに到着した。
とりあえず職場に行ってみると、たまたま同僚の姿を発見したのでこちらの様子を聞く。
職場がある一帯はまだ電気も水も通っていないということで、東海村と同じ。
ただ、中心付近では電気が生きているらしい(この情報は得ていた)。
また、物構研所長(大学で言うと学部長相当?)に会ったので東海の状況を報告。
連絡が全くつながらないのでこの情報は貴重だった模様。
他にも何人か知り合いに出会い、得られた情報としては
1.つくば側も人的被害はなし。
2.加速器は入射器の光軸がずれている模様(楽観的に見て2,3ヶ月を要する)。
といったところ。
あと、つくば市のtwitterが生活情報の収集に役立つことも教えてもらった。

その後、同僚に連絡をとろうとするも電話がつながらない。
仕方がないので、場所はうろ覚えだが直接訪問することにする。
幸いなことに無事アパートを発見。
部屋も覚えていなかったが、こちらも何とか発見することに成功した。
部屋に上げてもらってテレビの情報を収集。
途中、ラジオで聞いていた福島原発の話や津波の映像に驚く。
百聞は一見にしかずというのは正しい。

昼の遅い時間、近所のすき家が空いているということで行ってみることにする。
水がないのにどうやって調理するのだろう?と話をしていたのだが、やはり米はなく、具の持ち帰りのみの販売だった。
とはいえ、1日ぶりの温かい食事。
少し心が落ち着いたような、これが本当に現実なのか理解できないような変な気分だった。

食後、取手まで出れば常磐線が動いているということで学生さんを送る。
なお、自分は同僚宅に泊めてもらうことに。
その南下する途中でコンビニに立ち寄って驚愕。
食料と水こそないものの、おかしやジュース類はいっぱい残っている。
電気もついているし、行列もない。
一言で言うと普通に営業している。
数十kmが変わっただけでこんなにも違うものなのか…

あと、ガソリンが少しだけ不安だったので途中でガソリンを補給するが、不足のため2000円までということだった。
結論から言うと、この給油は必ずしも必要ではなかったのだが、今のガソリン不足を考えると控えておいた方が良かったかもしれない。
また、ここでも主要道路が通行止めになっていたので裏道を通るが、「つくばセンター - 取手駅」の往復バスを発見。
実は、つくばセンターまで送ればバスに乗せてあげることができたようだ。
燃料の観点からもバスの方が良いのは間違いなく、これもちょっとした失敗だったかもしれない。

駅の帰り、職場から電話が入る。
「職場のサーバーが死んでいるので緊急用の掲示板をgoogleに作りたい。メンバー登録に必要なので何でもいいからメールアドレスを教えてくれ」という要件だった。
確かに、みんなで情報共有するのは大事で、これは非常に役立ってくれた。
また、このときに原発で爆発があったことをラジオで知る。
結果的には水素爆発で建物のみ破壊(格納容器は一応無事)されたという事故だったのだが、自体が思っていたよりも深刻であったことを認識する。

同僚宅に戻った後は夕食を作って晩餐。
あまり気分ではなかったのだが、アルコールもいただいた。
ようやく普通の生活ができるようになった感じだが、やはりちょっと違和感。
どうやら、一度エマージェンシーモードが発動するとなかなか抜けきらないものらしい。
まぁ、とにかくここでようやく一息つけたような感じだった。


続きます。

ちなみに、このエマージェンシーモードは避難してきた今でも完全には抜けていません。
また、再び東海村に戻ることを考えると、完全に抜くのが怖い気もしています。
いずれにしても、今は英気を養うのみです。

2011/03/15

生存報告(3)

すみません。
ちょっと間が空きましたが続きです。


いよいよ日が暮れ始めた。
このまま歩いて家に帰ることも可能だったのだが、帰っても事態が好転するわけではないので皆と一緒に研究所の宿舎に逃げ込むことにする。
明かりは先ほど手に入れた懐中電灯。
周りには職場の事務の人の他、研究所へ実験にきたユーザーが散見された。
全体で50~70人といったところだろうか。
ユーザーは外国人の方が多いが、ラジオを入ってくる情報は日本語のみということもあって不安だっただろうと思う。
(反省6: 知らない人ということもあってやりづらかったのだが、もっと外国人をケアしてあげるよう動けばよかった。)

ちなみに、この時点でつかんでいた情報は
・マグニチュードは8.4(ご存じの通り、後に修正を重ねる)。
・大きな津波がどこかの町をのみ込んだらしい。
・原発が停止し、電気復旧の目処はたっていない。
・橋を中心に、道路が寸断されている。
といったところ。
いつ頃復旧されるか?という情報が一番欲しかったが、それに関する情報はない。
また、通行止め情報も橋の名前で呼ばれるので、具体的にどこかよく分からないことが多かった。
今にして思うと、メモを取りながら地図を見ながら確認すればよかったかもしれない。

宿舎なので毛布はそれなりにあるが、全員に行き渡ってはいなかった。
また、宿舎に食料と水が備蓄されているわけではないのでその辺をどうするかが問題だった。
自動販売機はあるのだが、停電で購入不可。
最近、災害時にも使える自販機があるが、あれは特に人が避難する場所において非常に重要だと思う。
手元にお菓子はあったが、とても全員に行き渡る量ではなく、これを食べてしまって良いものか非常に悩ましかった(少なくとも自分たちだけ食べ始める勇気はない)。
ただ、(大勢の人が並んではいたが)コンビニに残された食料が意外と多く、我々を含めた各グループがそれなりの食料を確保している様子(ここで衝動的な買い占め等が起きていなかったことは単純にすごいと思う)。
ということで、無理に全員で食料を共有しなくても良いということがはっきりしてきたので、我々のお菓子も食べ始める。
ただ、まだ食料を手に入れてなさそうな人もいたので、そちらにも回してあげた。

とはいえ、食料もずっと持つわけではないので、近くの避難所が(特に食料の面で)どうなっているか調べてはどうか?と事務の人に提案し、自転車で偵察に行ってくれる人にお願いした。
が、結論から言うと食料も毛布もは無かったらしい。
ただ、これから食料が配給される可能性はあるので、各自の判断で移動しよう、ということになり、だいたい半分ぐらいの人が避難所に移ったように思う(言い出しておきながら、僕は結局残ったのだが)。

まだ初日と言うこともあるだろうが宿舎の中は冷静で、談笑があちことから聞こえていた。
水なども事務の人が冷静に対応しており、共有の水が準備されていたように記憶している。
難しかったのがどのタイミングで帰るかの判断。
近くに家がある人はできれば帰りたいと考えるわけだが、渋滞がひどく、道路情報もろくにない。
ただ、9時ぐらいになるとさすがに車が減り始め、何人か帰ることを決断する人が現れ始める。
僕も決断に悩んでいたが、家で余っている布団を持ってきて差し入れた方が良いかなと判断し、(22時頃?)一度車を研究所内に取りに行ってから自宅へ戻ることにした。

先ほど手に入れた懐中電灯を手に研究所内へ。
話の通り渋滞は減っている。
ただし停電のため信号は無く、人の手で交通整理が行われていた。
懐中電灯で色々なところを確認しながら移動するが、所々で人が集まっている箇所がある。
後で聞いた話だが、所内でも宿舎のように一晩を明かした場所があったらしい。
道路は入り口近辺では特に問題が無かったのだが、J-PARCに近づくほどひどくなる傾向にあった。
そもそもこの近辺は砂地で、地盤が弱いことは指摘されていた。
地震が無くても道路が徐々にへこんでいき、早々に改修工事を行っていたような状況だったので、このような傾向があってもおかしくないように思った。
が、それにしてもその差は顕著で、新しい道路にもかかわらず破損は大きかった。

駐車場に到着後、その破損した道を恐る恐る超えることに成功。
無事、車で研究所の外に脱出することができた。
外の道は基本的には空いていて、信号が灯いていない以外は問題なく通れた。
ただし、橋梁は段差ができていて、通るのに注意が必要だった。
また、幹線道路である国道6号線に近づくと車が渋滞し始め、まだまだ渋滞が続いていたのではないかという印象だった。
他に印象的だったのは所々で家の塀が倒れていることで、地震当時近に人が居たら確実にけがをしていただろうと思う。

その後、無事家にたどり着いてから使っていない布団と毛布を車に乗せ、研究所の宿舎に引き返した。
布団を渡した後、再び家に戻って寝る支度を始める。
いつ余震が起きても良いように上着を着たまま寝ることにする。
電話は通じないがメールはつながったため、 寝る前にメールとtwitterにて無事を報告して就寝。


続きます。

職場の方が今週いっぱい自宅待機となりました。
被災地からは少しでも人が減る方が良いと思い、実家の方に疎開してきたところです。
避難生活を送っている人が多くいると思うと少し心が痛いですが、募金など今の私にできることをやっていきたいと思います。

また、投稿しようとしたら静岡で大きな地震が起きましたね。
余震はまだまだ起きそうです。
場所によらず、気をつけた方が良さそうです。

2011/03/13

生存報告(2)

続きです。

その後点呼が完了し、欠員、負傷者が居ないことを確認。
各自解散となった。
同じ職場のメンツはとりあえず敷地の外にある自分の居室がある建物に歩いて移動することに。
たどり着いたら宿舎の外で皆待機していた。
また、後から何人か遅れてやってきた人もいて、高速道路で移動中に地震に遭い、片側車線が崩落している脇をすり抜けてやってきたという話を聞いたりした。
また、ここでラジオやカーナビのワンセグ放送による詳細な情報が聞けるようになってきた。
途中、iPhoneなどによる情報も貴重だったが、やはり放送による情報もやはり大きな意味を持つ。
(反省4: 災害時において情報は生命線。情報収集できる端末を至る所においておくと役に立つだろう。)

なお、私は職場の人員掌握担当者なのだが、内線も携帯電話も全くつながらず、何の意味もなかった。
皆で話しているうちに、「リストを作ることにしよう」ということになって、確認できた人を紙で名前を書いていくということにした。
その後、帰宅した人などにチェックを入れたり、安否を確認するための携帯番号などをリストに加えたりしたのだが、後でこういう情報が必要だと気づいたため、一部チェックできなかった人が居た。
(反省5: 緊急時の体制についてはもっとよく考えておくべき。本当に大変なときに電話がつながるわけがない。また、担当者を決めるのも大事かもしれないが、今回の私みたいに仕事の都合ですぐ近くに居ない可能性は非常に高い。誰が中心になっても大丈夫なようにルールを決めておいた方が良いように思う。)

日が落ちきる前に明かりを確保するため、懐中電灯などを求めて居室のある建物に侵入。
部分的に壁が欠けたり天井がはがれかけていたりしてほこりっぽい。
部屋は散らかっていたが、思ったほどではなかった。
給湯室と事務室でポットと懐中電灯、電池、そして若干のお菓子を手に入れた。
今にして思うと冷蔵庫の中もチェックし、水を確保した方がよかったかもしれない。

続きます。

つくばの部分給水が開始されました。
これでずいぶんと楽になります。
ただ、明日から計画停電が始まると言うことで、まだまだ予断は許しません。

生存報告(1)

東北地方太平洋沖地震が起きた3月11日14時46分、東海村のJ-PARCに居ました。
今はつくばに移動してきて一息ついた状態です。
上水はまだ復旧していませんが、十分生きていけます。
この出来事を忘れないためにも、今覚えている事を時系列で記録しておきます。

地震の当時、担当装置の制御室で業者さんと打ち合わせを行っていたところ、窓ガラスが鳴る音から地震に気づく。
弱い振動が長く続いていたため遠くで強い地震が起きたのではないかと予感し、少し緊張し始める。
徐々に揺れが強くなりはじめ、かなり大きな地震だと認識。
揺れが非常に長く続いた後、このまま弱まりそうな気配を感じて少し安心したところ、ドン!と立っていられないほどの大きな横揺れが。
その後、強い揺れが続きながらも徐々に弱くなっていった。
(反省1:机の下に隠れておいた方がベターだった)

どのタイミングかははっきりと覚えていないが室内は非常灯を残し完全停電。
鞄と上着を急いで装着して制御室を飛び出たところ、周りにも多くの人が居て揺れが完全に収まるのを待つよう指示された。
最初、通常出口に向かって逃げようとしたのだが、すぐそばに非常口があることを指摘され、扉を開いて脱出。(反省2:非常口は常に認識しておくべき)

建物の外周は明らかに沈下しており、1mほど沈んでしてしまっている箇所もあった。
周りの人と当時の状況と揺れの恐怖について話をしながら駐車場に移動。
ぱっと見る限りけがをしている人は居ないようだ。
人員点呼が始まったが、どうも海の方から「ゴゴゴゴゴ」と低い音が聞こえているような気がした。
地震の後ということで津波を強く懸念していたのだが、点呼は続けられている。
駐車場は海にかなり近いので早く逃げなくて良いのかとやきもきしていたのだが、iPhoneで津波警報が出ていることを教えてくれるとの情報が入り、少し高い場所に向かって移動し始める。
(反省3:ここで津波の危険があることを強く主張すればよかった)

移動中、道路に大きな段差が多く見られた。
幸い、退避に使う道路は大きくても10cm弱の段差だったが、数mに渡って50cmほど沈下している箇所もあったようだ。
無事、別の建物の駐車場に移動したところ、3階から窓が外れて車に直撃していた(当然車は破損)。
建物から逃げてきた人に話を聞いたところ、中は棚が倒れてひどいことになっているらしい。
そうこうしていると強めの余震があり、緊張が走る。
本震に比べれば弱く、被害はなかったが、建物は左右に大きく揺れていた。
この建物は古いため、耐震強度が弱かったのかもしれない。

長くなりそうなので、まずはここで一区切り。
続きはまた書きます。

なお、私は非常に恵まれた状況にあり、不便ながらも通常の生活に戻ることができています。
一方、もっと被害がひどかった地域の方は生きていくのも困難な状況にある方がたくさんいるかと思います。
一人でも多くの方が生存できること、そして一刻も早く復旧が完了することを心からお祈りします。