2011/03/17

生存報告(4)

原発の事故が拡大しています。
今のところ、外部へ放出された放射性物質の量は多くありません。
予断は許しませんが、冷静に対応しましょう。

続きです。


継続的な余震があり、何度か目が覚める。
結局、うとうとするぐらいしかできなかった。
そんな中、朝からどういった行動するかを考えていたように思う。
出した結論は「荷物をまとめて早朝に被害が少ない地域まで南下する」。
もちろん、こんなときに一人で移動するのは非効率だ。
6時になったら一度研究所の宿舎に戻り、人を乗せて移動することに決めた。
そっちの方が、自分としても心強い。

携帯で時間を確認しながら5:30になるまで布団の中で待機。
5:30になるも外はまだ暗く、室内の様子は携帯などで何とか照らす。
衣類と貴重品をまとめ、身支度。
洗濯用にためておいた風呂の残り湯があったので、それを使って髪を洗うぐらいはできた。
そうこうしていると、日も昇り始めたので車に乗って出発。
車は多くないが、信号が止まっているので慎重に移動する。
気温は-2℃だが、燃料節約のためエアコンはつけない。
ガソリンメーターは約半分なので、400kmぐらいは走れそうだ。

問題なく宿舎へ到着。
寒さのため窓ガラスが凍っており、外から中の様子が見えない。
手で自動ドアを開け、中に入って絶句。
完全にテレビで見た避難所の様子だった。
自覚が足りてなかったのかもしれないが、ここは被災地なのである。

何人か起きている関係者が居たので早朝の車が混んでないうちにつくばに逃げることを伝える。
車と人間の割合を見て、手分けすれば全員がつくばへ移動できることを確認。
情報も少なく、どうするのがベストなのか誰にも判断できない状態だったので今後どうするかは各自の判断ということになったが、つくばに家がある人は同じように移動するが、東海に家がある人は残る、という感じだった。
また、気づいていなかったのだが徐々に携帯の電波が弱くなっているという話を聞いた。
自分の携帯を見ても確かに弱くなっている。
おそらく、基地局の非常電源が切れてきているのだろう。

そうこうしながら、こちらに実験にきていた学生さんをたたき起こし、つくばへ移動するが、希望するなら乗せていく旨を伝える。
彼らは家が東京なので二つ返事でOK。
実験中、宿舎で自炊等をしていたので、荷物と共に食材をまとめて6:30前には宿舎を出発をしたと思う。

まずは国道6号線に沿って水戸の方へ南下。
水戸市内までは渋滞もなく移動できたが、市内に入ると途中でガス欠をおこしたのか2車線の片側をふさいで止まっている車があったり、事故車があったりしてちょっとずつ渋滞が見え始める。
さらにすすむと完全に通行止めになっており、仕方なく迂回路を探す。
しかし、この辺の地理には明るくないので右往左往しながら道を探しているとコンビニを発見。
地図を求めてここに立ち寄ることにする。

どうやら開店直後だったらしく、まだ車も人も大行列には至っていなかった。
店内で地図を探し当てると共に、今後の食料(お菓子)とお茶を確保。
公衆電話が無料で使えるようになっていたので、これで連絡をとったりした。
ちなみに、無料とはいえ10円玉は必要なので、使用後は公衆電話の側に置いてあげるとみんな助かると思う。

途中聞いてたラジオで6号線はつくばの手前、石岡あたりでも通行止めになっているという情報を入手していたので、地図で別の道を検討。
国道50号線を使って筑西経由でつくばに移動することに決めた。
途中、市内で大渋滞が起こっていたのだが、なぜか右側の車線は空いている。
おかしいな?と思いながら右側を通っていったのだが、この渋滞の正体はガソリンスタンドへの行列だった。
また、水戸駅付近のコンビニにも大行列ができていた。
先ほどすんなりとコンビニに入れたのは相当運が良かったといってよいだろう。

その後は順調に移動し、9:30頃にはつくばに到着した。
とりあえず職場に行ってみると、たまたま同僚の姿を発見したのでこちらの様子を聞く。
職場がある一帯はまだ電気も水も通っていないということで、東海村と同じ。
ただ、中心付近では電気が生きているらしい(この情報は得ていた)。
また、物構研所長(大学で言うと学部長相当?)に会ったので東海の状況を報告。
連絡が全くつながらないのでこの情報は貴重だった模様。
他にも何人か知り合いに出会い、得られた情報としては
1.つくば側も人的被害はなし。
2.加速器は入射器の光軸がずれている模様(楽観的に見て2,3ヶ月を要する)。
といったところ。
あと、つくば市のtwitterが生活情報の収集に役立つことも教えてもらった。

その後、同僚に連絡をとろうとするも電話がつながらない。
仕方がないので、場所はうろ覚えだが直接訪問することにする。
幸いなことに無事アパートを発見。
部屋も覚えていなかったが、こちらも何とか発見することに成功した。
部屋に上げてもらってテレビの情報を収集。
途中、ラジオで聞いていた福島原発の話や津波の映像に驚く。
百聞は一見にしかずというのは正しい。

昼の遅い時間、近所のすき家が空いているということで行ってみることにする。
水がないのにどうやって調理するのだろう?と話をしていたのだが、やはり米はなく、具の持ち帰りのみの販売だった。
とはいえ、1日ぶりの温かい食事。
少し心が落ち着いたような、これが本当に現実なのか理解できないような変な気分だった。

食後、取手まで出れば常磐線が動いているということで学生さんを送る。
なお、自分は同僚宅に泊めてもらうことに。
その南下する途中でコンビニに立ち寄って驚愕。
食料と水こそないものの、おかしやジュース類はいっぱい残っている。
電気もついているし、行列もない。
一言で言うと普通に営業している。
数十kmが変わっただけでこんなにも違うものなのか…

あと、ガソリンが少しだけ不安だったので途中でガソリンを補給するが、不足のため2000円までということだった。
結論から言うと、この給油は必ずしも必要ではなかったのだが、今のガソリン不足を考えると控えておいた方が良かったかもしれない。
また、ここでも主要道路が通行止めになっていたので裏道を通るが、「つくばセンター - 取手駅」の往復バスを発見。
実は、つくばセンターまで送ればバスに乗せてあげることができたようだ。
燃料の観点からもバスの方が良いのは間違いなく、これもちょっとした失敗だったかもしれない。

駅の帰り、職場から電話が入る。
「職場のサーバーが死んでいるので緊急用の掲示板をgoogleに作りたい。メンバー登録に必要なので何でもいいからメールアドレスを教えてくれ」という要件だった。
確かに、みんなで情報共有するのは大事で、これは非常に役立ってくれた。
また、このときに原発で爆発があったことをラジオで知る。
結果的には水素爆発で建物のみ破壊(格納容器は一応無事)されたという事故だったのだが、自体が思っていたよりも深刻であったことを認識する。

同僚宅に戻った後は夕食を作って晩餐。
あまり気分ではなかったのだが、アルコールもいただいた。
ようやく普通の生活ができるようになった感じだが、やはりちょっと違和感。
どうやら、一度エマージェンシーモードが発動するとなかなか抜けきらないものらしい。
まぁ、とにかくここでようやく一息つけたような感じだった。


続きます。

ちなみに、このエマージェンシーモードは避難してきた今でも完全には抜けていません。
また、再び東海村に戻ることを考えると、完全に抜くのが怖い気もしています。
いずれにしても、今は英気を養うのみです。

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